【短編小説】インサイドアウト

作品(小説・随筆)

夫婦と男女をテーマに書いてみました。

ぜひお召し上がりください。

作者:葉暮 実

 外の異変に気づいたのは夫が先だった。
窓の外を見下ろしながら、あーららと呆れた声を彼は発している。子供がおっぱいを飲んで寝入ったところで、わたしは夕飯に作ろうとしている煮物のレシピを見ていた。夫はこちらの注意をとくに得たいというのでもないらしい。わたしはスマホの画面を見凝みつめたまま顔をさえ上げなかった。こうした自分たちの姿に夫もわたしもこの頃では慣れきっていた。お互いがいて、お互いがいないかのようだった。──
「なんだ、やっぱりそうか。さっきから女の泣くような声が聞こえるかと思えば……」
夫は素気なくこう言ったが、その声音はじとりと湿った好奇を多分に含んでいた。他人の不幸を味わう野次馬の声を聞くようだ。無関心を装う心とは裏腹に、わたしの耳はすでに窓外の物音へと敏感になっている。
たしかに女性の啜り泣くような声が聞こえた。声からして若そうだ。何か訴えているようだが、言っている内容まではわからない。しかし、女性の声にはある種の緊張と切実とが濃く滲んでいた。
わたしは女性が自転車のあて逃げか、ひったくりにでも遭ったのだろうかと最初はじめは思ったのだが、どうやら違うようだ。さすがの夫もこうしたことで面白がるような人物ではない。夫の好奇が伝染してくるようで、抗いたいものをわたしは感じながらも、スマホを持ったまま起ち上がった。そして、夫が開けているのとは反対側のカーテンの端を摑んだ。
もうすっかり夜だったが、時間はまだ十七時を過ぎたばかりで、人通りが繁かった。保育園帰りらしい子供を乗せた自転車や同じく家路を急ぐらしい黒い人影が立てる靴音が耳を聳やかす。
女は、わたしたちが住むマンションに隣接する空地を囲むフェンスに寄りかかるようにして立っていた。二階から見下ろす形なので、こちらからは女の後姿しか見えない。女の前には背の高い、若いらしい男が立っている。街灯の光で男が銀髪に近い明るい髪色をして、メガネをかけているのがわかる。男は女の左肩のやや上辺りに腕を伸ばして、フェンスの網を摑んでいる。女の顔は見えないが、時折何か言葉を発する毎に手に握った白い布らしきものを顔の方に持っていく動作で女が泣いているらしいのが見受けられた。
彼らの服装がわたしの眼をひいた。女は上下ジャージ姿、男のほうはというと、半袖のTシャツにハーフパンツという出立だった。十一月半ば過ぎの外気が身に沁みるに違いない。だが、おそらくいまの彼らは寒さどころではないのだろう。両者とも裸足にサンダルを突っかけているし、家からそのままとび出してきたのに違いない。
黒い人影が増えた。往来を傍に過ごしながら佇む男女は異様だった。女が辺り構わずといった体で喚き散らす。その度、彼らの周囲には緊張の赤い糸が張り巡らされていくようだった。男は、蜘蛛の糸に捕縛された虫のように落ち着きなく、しきりと周囲に眼を配りながら焦燥を隠せないでいた。
男女の様子を眺めながら、夫がくくくと笑っているのが聞える。それから、女が家をとび出したのを男が追いかけてきたんだろうな、とこちらがすでに予想していたことを繰り返す。
「ありゃ、男のほうから別れ話でもしたのがきっかけでおっぱじめちまったパターンじゃないか? 女が別れるなら死ぬだとかなんとか騒いだのかもしれない。刃傷沙汰にでもならなきゃいいけどな。もし彼らがうちらのマンションの住人で、血で汚されちまったんじゃ、こっちもたまんねーからな。こっちはまだ越してきたばかりなんだからよ」
夫はぶつぶつ独り言のように呟きながら、テレビでサッカーの試合をでも観ているときのようだ。わたしは、彼の言葉を耳から耳へ流しながら、心で否定している。女はいまでこそ泣き騒いでいるが、いざ別れる段になって騒ぐのはむしろ男のほうではないのか。女という生物は、そうと決心したなら固いもので、案外平気な顔をしているし、別れてしまえば男のことなどもう他人として知らんふりできたりするものだ。ここまで考えて、わたしはふと思った。乾いているのは夫よりもわたしのほうなのかもしれないと──。
「ああいうときってさ、男は内心、メンドクセーだとか、カンベンしてくれよって思ってるもんなんだよ。なんてゆーかさ、重いんだよな、ああいうタイプの女って。──なんだか重そうな女だな、あれも」
夫にも似たような経験が過去にあったのだろうか。だが、それも自分にはもはや関係のないことのように思っている自分がいる。
女が立て続けになにをか男に訴えている。
「ねえ、どうすんの、これから? ねえ、どうしたいのよ?」
「だから、それは前にも言ったように……あれは間違いだったんだって……やり直したいんだよ、オレは……」
男の弁解する声が聞こえてくる。周囲を憚ってか、語尾は萎み、話の最後のほうはもう耳に届いてこなかった。なにか己の決意に対する自信のなさというのか、ただ単にその場を収めたいという焦燥が男を揺すぶっているように見えた。それが女の癪にますます触るらしかった。車が過ぎる度に、彼らの姿が白く浮び上がって、そして赤く染められた。男は近づいてくる車を振り返っては、避けるように女のほうに身体を寄せた。女はただ俯いたまま目元を拭っていた。
わたしは不意にかの女を羨ましく思った。そう思ってしまった自分が自分で意外であった。たしかに重い女かもしれない。だが、重い女と思われようが、相手がどんな男であろうが、真剣に向き合える相手が女にはいる。わたしはなにをか突きつけられるのを感じた。しかし、羨望はわたしの心を掠めただけで、一瞬にして揮発してしまった。わたしはそもそもそういう女ではない。この事実がすべてを一掃してしまった。わたしはそういう女ではない。──
三十分ほど経ったところで、女は男に手を引かれるようにして、わたしたちの窓の下を過ぎていった。ふたりの中にどういった合意がなされたのかはわからない。隣の棟の前で男女は忽然こつぜんと消えた。
隣の棟の人だったみたいねと、わたしはカーテンを閉めながら夫のほうを振り返った。ふーん、そう、と夫はすでに関心を喪ったといった風で、スマホの画面に見入ってゲラゲラ笑っている。わたしを一瞥もしない。夫のさも愉しげな顔が青白く浮いている。この顔が愛おしいと思っていたわたしはどこへいったのだろう。そもそもそんな自分はいたのだったろうか。わからない。いつから、ふたりはふたりでいなくなったのだろう。わからない。わたしが変わったからか、彼が変わったからか。どちらもかもしれないし、どちらでもないかもしれない。わからない。ただ、わたしは男のために泣けない女だし、そういう女ではない。そういう女であったこともこれまで一度もなかったように思う。わたしたちはお互いのなんだったのだろう? これが夫婦? 事実はいつだって冷たい。鳥肌を立てるほどに、冷たいのだ。
カーテンを裾を整えて、わたしはようやく窓辺を離れた。キッチンへスリッパを曳きずりながら、わたしはトートバッグに入れたままになっている離婚届をありありと思い浮べている自分をも曳きずっていた。そして、最後のときがもう近いのを感じるのだった。

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