どうも、葉暮です。
これまで計3回に渡ってお届けしました『刃物』も今回が最終回です。
これまで読んできた流れが一気に変わります。
一体何が起こったのか、ご自身の目でお確かめください。
それではお召し上がりください。
(四)
「お待たせ。ごめんね」
カート・コバーンの画に店主の姿と声とが覆いかぶさってきた。赤城さんはそれからシャンプー台を引き寄せると、シートを倒して私を仰向けにした。出されたお湯とシャンプーの香りに心地好くなっていると、彼は思い出したように再び口を開いた。
「先刻の息子の話だけど……、あれにはちょっとした続きがあるんだよ」
彼の声にはこちらの反応を伺う素振りが感じられたので、私も「ぜひ、聞かせてください」と彼を促した。
「あれから年を越して正月休みが終わった頃だったかな。ほら、ここからちょっと行ったN駅の前に中古品販売店あるの知ってる? そこから電話が掛かってきてさ。『お宅の息子さんが……』なんて言うもんだから、今度は万引きでもしたんじゃねぇかって、一瞬頭に過ぎるもんがあったんだけど、そうじゃなかった。
『お宅の息子さんがゲームのソフトを売りに当店にいらっしゃったんですが、お間違いないですか』って訊くんだよ。よくよく聞いてみると、ほら、未成年は親の承諾なしには売れないみたいでさ。こっちは息子からそんな話は聞いちゃいないし、息子にはちゃんと小遣いはやってるし、あのゲーム好きがなんで?なんて思いながらも、きっと金が足りなくなったのを親に言えなかったんだろうって。それで承諾したんだ。
そんな電話があって数日経った頃だったかな。俺が店閉じてる時だった。息子が珍しく『父ちゃん、話あるんだ』なんて言ってくる。また小遣いでもせびりに来たんだなと、こっちが思っている手前で、茶封筒を差し出してこう言うんだ。『これ、まだ足りないかもしれないけど』ってね。中身を見てみると、七千円入ってる。涼平、お前って言いかけたところで、息子が『この間は迷惑かけてごめん。足りなかったらまた今度返すから』と頭を小さく頷くように下げてね、それから背を向けて自分の部屋にかえっていったよ。息子は自転車の弁償代のつもりだったのかもしれないけどね、正直、俺は呆気に取られたように突っ立って、バカみたいに手に持った茶封筒を見凝めていたっけ……。そのうち胸の中から熱いもんが込み上げてきてさ。柄にもなくじんときちゃんたんだなぁ。
ま、そんな事があったのを今でも時々は思い出すんだよ。つい昨日のようで、気づけば十数年も前のことなんだから。子育ても振り返ると、いろいろあったなとしみじみ思うもんだよ。三村くんもいつか自分の子育てを振り返る機会があるだろうから、今は大変でも、いい時もきっとあるから」
店主はこうして私を励ます言葉で話の最後を結んだ。それからはいつものように顔を剃ってもらい、会計と次月の予約を済ませると、彼の笑顔に見送られるようにして私は店を後にしたのだった。店主の話のお陰なのか、不思議と顔を剃ってもらっている時さえ、妙に清々しかったのを私は憶えている。
私はこれから先の出来事を書くに忍びない。
私に息子とのエピソードを嬉しそうに語ったあの日を最後に、店主の赤城さんは私の髪を切ることも、また顔を剃ることもなくなった。
それは十一月の中旬頃だった。次回の散髪日を翌週の土曜日に控えていたその日、私は妻と息子を連れて日課にしている夕刻の散歩に出た。いつもは別方面ばかりを散歩コースにしていた私たちが、なぜその日に限って「ルージュ」のある方面を選んだのかはわからない。今になって思うと、ただ呼ばれたような気もしなくはない。いつか店を通りかかった際に赤城さんに妻と息子を紹介したい気持ちも兆していたのは確かだった。実際、彼にも話していたようにも思う。
坂を下りて、「ルージュ」へ通ずる道を歩いていくと、店のある辺りに人集りがしていた。店の前の通りは夜に入ってこそ静まり返るが、私鉄の駅への抜道のようになっていて、日中は案外に交通量が多い。私たちはてっきり交通事故でもあったのだろうと思った。
ところが、最後の交差点を信号待ちしている時に、私たちは自分たちの予想が大きく外れていることを悟らされた。
「ルージュ」の前辺りにパトカーが二台停まっている。それを囲繞する人集りを警官らが「下がって、下がって」声を張り上げ規制線を敷こうとしているのだった。
常ならぬ現場の緊迫した空気に、私と妻は互いに顔を見合った。人集りの最後尾で様子を伺っていると、前にいる人たちの中から、「なにか、殺人事件らしいぞ」という囁き声が聞こえてきたので、私の心はいよいよ不穏な影に暗んだ。店主の赤城さんになにかあったに違いないと思うと、彼の屈託ない笑顔が浮かんだ。ベビーカーの息子は周囲の喧騒を外にいつの間にか寝入っている。
日暮れて早くも夜闇がその色を刻々と濃くする中を、いくつもの人影が一つの黒い塊となって、なにかを待つように蠢いている。パトカーのサイレン灯が隣家の壁や道に佇む人々の顔を赤く染めて、マスコミの者なのか、カメラのシャッターを切る音やスマホを頭上にかざしてスーツ姿も見えた。私は、前に立つ近所の者らしく思われる初老の男性に、「一体、何があったんですか」と訊いた。すると、男はよくわからないんだけどね、と前置きしながらも、「あそこの床屋の家族にトラブルがあったようだよ」と言った。私と妻がその男と首を傾げていると、前のほうから人並みを抜け出てくる二、三人の青年たちがあった。彼らは今さっき見聞きしたことをそのまま話しているようだった。
「殺傷事件だって話だったな」
「でも、救急車は来なかったぜ?」
「そりゃ、もう手遅れだったからだろうよ」
「そうなの? 俺、小さい時にあの店に通(い)ってたことあんだよ」
「マジで。お前殺されなくてよかったな」
「バカ」
彼らはこんな事を話しながら私たちの脇を過ぎていった。
これだけを聞いても私はあの店内でなにが起こったのかわからなかったし、なにより事の次第を信じられないでいた。だが、青年たちの一人が言ったように、私たちが現場に来た頃にはすでに救急車はなかった。すでに去った後だったのかもしれない。それともすでに“遺体”となっていたとも考えられなくもない──。私の脳裏を種々雑多な想像が駆け巡った。
犇く人集りが揺れ動いたのは、さらに五分ほど経てからだった。急にフラッシュの光が走って周囲が明るんだかと思うと、店のガラス扉を警官一人が手をかけた。そして、中から人が出てくる気配だ。私は人並の間から首を伸ばした。「来るぞ、……来た、来た!」と言う男の声が傍らから聞こえた。
両脇を抱えられ、白髪頭を項垂れていた店主の小さい姿が視界に現れた。
すると、どこからか一際鋭く甲高い女性の一声が、空から落ちて来たように辺りに響いた。
「赤城さん、息子さんを愛してなかったんですか?」
それはほんの一瞬のようで、はっきりそうと耳に聞こえた。詰め寄るような、刺すような声だった。その声は赤城さんの耳にも届いたらしい。彼はそれまで伏せていた顔を上げて、フラッシュや撮影灯に眩い方を一瞬間だがはっきりと見た。私からはちょうど彼の斜向かいにあたる位置で、彼の眼は横を睨んでいた。そう、確かに彼は睨んでいた。その彼の眼に刃物が閃くのを私は見たように思った。《完》
いかがでしたでしょうか。
感想はさまざまだと思いますが、あなたがお感じになられたままを大事になされてください。
それでは、ごきげんよ〜。
葉暮
これまでの話はこちら
・第一回
【連載小説】刃物(第一回)
・第二回
【連載小説】刃物(第二回)
・第三回
【連載小説】刃物(第三回)
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