【短編小説】呼び声

作品(小説・随筆)

どうも葉暮です。

私が以前書いた原稿を改訂して発表しています。

今作は、少し幻想的な要素を試みた際の一作品をご紹介します。

原稿用紙にして10枚分くらいの文字数となっています。
読みづらい、もしくは私が独自で用いている漢字については読みやすいようにルビを振らせていただきました。

お楽しみいただければ幸甚です。

 そんなはずはない、と思うより早く、僕は列の後方を振り返っていた。すぐ後ろに並んだ女性がスマホから顔を上げて怪訝そうに僕の顔を見ている。きっと、乗ろうとしていた電車とは反対側のホームにいたことにいま気がついたといった顔を自分はしていたのかもしれない。僕は思い違いだと言わないばかりに前に向き直った。
 亜莉沙の自分を呼ぶ声を聞いた気がした。幻聴などこれまで経験したことはないが、これがもしかしたらそうなのかもしれないと僕は思った。そう思うより他ない。朝の混雑時間ラッシュアワーで、いつも僕が通勤で利用する駅は着膨れした人々で雑踏し、常に入り乱れていた。今夜は今シーズンで最も冷えると出がけにテレビのニュースが伝えていたので、僕もいつもより厚着して家を出た。この一、二週間ずっと寒暖を繰り返していたここ東京でも季節はようやく定まったらしい。
 亜莉沙の声をこんな場所で耳にするはずなどない。だが、僕の五感は信じなかった。眼は落ち着かずに周囲を彷徨ったし、耳は雑踏と駅のアナウンスの中で自分に最も親しかったと言っていい声を探している。気のせいだ。このところ残業続きで疲れているせいだろう。冷めた頭がそう自分に言い聞かせているうちに、電車がホームに近づいてくるのが見えた。危ないですから黄色い線の内側にお下がりください、といつものアナウンスの後を追って駅員がしきりに張り上げる声に被さるようにして電車が滑り込んでくる。ドアが開くと人々がどっと黒い流れとなって吐き出された。僕は思わず一、二歩後退あとじさる。自分と同じように背広にコートを羽織った男の肩がぶつかってきたが、男は何も言わないまま黒い流れに紛れた。いつものことだ、と僕は毛羽立ってくる心を宥めた。自分もまた黒い流れの一部なのだ。電車の中の空気は香水と生乾き臭に似た臭気で混濁していた。人熱ひといきれで額に汗が浮かぶ程で、息が詰りそうだった。で額に汗が浮かぶ程だった。我慢比べでもしているような自分が我ながら滑稽に思えてくる。自嘲してやりたくなる。早く大人になりたいと背伸びしていた高校時代の自分に言ってやりたい。それこそ亜莉沙と付き合っていた頃の自分に。社会に出れば待っているのは我慢比べなのだと。すると、自分はこんな我慢比べをこの先あと何年続けなければならないのだろう? 息の詰まりそうな通勤、無機質なオフィス、やたらと絡んでくる上司や同僚の下らなく卑しい冗談、取引先で向けられる鬱陶しそうな視線、同僚の愚痴や猥談……。終電近くに家に帰ってきても迎えてくれるのは、朝に置いてきたままとっくに冷え切ってしまっている自分の脱殻だけだ。亜莉沙と付き合っていた頃の自分はこんな生活を夢見ていたのか? いや、違う。夢など見ちゃいなかったんだ。社会の、常識の、あまりのつまらなさを度外視していたに過ぎなかった。「まだ見ぬ現実」だったわけだが、その現実さえもほんとうにあるべき現実なのか?と疑いながらもこれまで受け入れて「現実」にしてきたに過ぎない。受け入れてきた……? 今のこの「現実」もまた自分は受け入れているのだろうか? このような思考が澱んだ空気の中を堂々巡りしている。もう考えるな、考えないほうがいいんだ。ジタバタしているうちに力尽きて溺れてしまうぞ! 海の遭難者のように。──
そんな考えも会社に着くまでのことだった。
一日が始まってみると、違う「自分」になるようだった。もう一人の「自分」──嘘の「自分」──自分を騙す「自分」に。──
亜莉沙の張りのある涼やかな声は聞こえなかった。やはりあの声は自分の空耳であったのだと、僕は決めてしまった。イヤで仕方ないと毎朝思う黒い流れに僕は知らず識らずのうちに身を任せきってしまっている。
一日が終わると、また自分が戻ってくる。疲れ切っていた。どんよりした雲をでも背負って来たようにこの日も帰宅すると、倒れるようにして眠ってしまった。夢の中で、懐かしい手に触れたような気がした。──

まただ──同じ朝。薄暗い。今日で自分は何回目の朝を迎えたのか。単純に計算しても、ざっと十万と二千二百回以上にはなる。そのうち自分が思い望んだ朝を僕は何回迎えられたのだろう。そんな取り留めないことを思うともなく思っていると、スヌーズ設定にしていた三回目のアラームが鳴った。目覚めていながら、起きられそうにない。だが、やはりこの日も何かに追い立てられるようにして、僕は自分の身体を家から曳きづり出すのだろうな。
 雑踏の中で、ホームを斜にして差し込んでいる朝陽だけが自分に親しいもののように見えた。改札を入ってホームへの階段を降りると、すでに上り方面の側には長蛇の列ができている。次に来る電車には乗れそうにもないので、僕はホームへ出ると、少しでも人の少ない空間を求めて人の合間を縫って歩いた。
「亮介くん」
 先頭車両に近い階段下に来た時だった。亜莉沙の声をすぐ耳元で聴いた気がした。どこから呼ばれたのか、前か、後ろか。
「亮介くん、こっちこっち」
 前を歩く男性の肩越しに、学生服姿の女性がこちらを何度も振り返っている。
 そんなはずはない──僕は自分の眼が信じられなかった。しかし、僕の眼は確かに彼女を見ていたのだった。いや、違う、なんかの間違いだ。人違いだ。何せこの人混みだから。僕は周囲を見回したが、誰もこちらに注意を向けている者などない。女子高生と思われる制服の上にピーコートを着た女性がまたこちらを振り返った。
──亜莉沙だった。否定しようがない。彼女は十年前のままだった。
亜莉沙は、なにもたもたしてるの? 早く、と後ろ手でこちらを手招きながら構わず黒い流れの中へ入っていく。振り向くその顔に浮かぶ微笑もあの頃に変わらなかった。このままだと僕はまた彼女を見失ってしまいそうに思った。十年前に彼女を永遠に失った時のように──。
電車が来て乗客を吐き出す前に彼女に追いつかなくては、と思い、僕は前を歩く男性を追い越そうとしたが、こちらに向かってくる人の流れに阻まれた。そこで、黄色い線の外側から追い越そうとした。危ないですので、黄色い線の内側にお下がりください、といういつものどこかゆったりしたアナウンスが聞こえる。そして、すぐに駅員の怒声。「危ないですよ、下がってください。下がっ、下がってください!」という声が僕を背後から追いかけてきたが、その声は段々と僕からフェイドアウトしていくように感じられた。
と、背の辺りに激しい衝撃を感じたかと思ううちに、自分の身体からだが宙に浮いた──。

先頭車両が停まったあたりに亜莉沙はすっと立っていた。白い吐息が口元からうっすらと漏れている。僕は彼女に追いついたが、なにを言ったか自分でわからなかった。自分でない他の人間が話しているのを聞くようだった。僕は言葉を探しながら、彼女を見凝みつめていた。
「亮介くん、なんでこの前はシカトしたの?」と言う彼女の声が耳に近くなった。
「え……、この前って……あれも君だったの?」
「何度も呼んだのに、全然気づいてくれなかった」と不服そうに頬を膨らませたが、その後で「ま、十年ぶりだから仕方ないっか」と納得したように笑う。
「ど、どうして、君がここに……それに、君は十年前のまま……どういうことだか、全然わかんないよ」
 僕は自分が本当にどうかしてしまったんだろうと思った。亜莉沙の前でどう振舞ったらいいのかわからない。彼女はなにもかも一八歳のままだが、自分は二十八の大人だった。自分だけ齢をとってしまっているようだ。僕は幻覚を見ているのだろうか。
「見つけるの大変だったんだから」と、亜莉沙が眉根を寄せた。
「ね、少し太ったんじゃない? イケメンが台無しだよ!なんて。ふふ、ま、これからはもうこれ以上太ることないからいいか」
 彼女はにやにやしてこちらを見ている。
「ねえ、なんとか言ったら? 十年ぶりの再会だからどんなにロマンチックかと思ったらこれだもん……ま、亮介くんらしいか」と、また屈託なく彼女は笑う。
 僕は呆気にとられて彼女の意地悪な視線に自らの視線を重ねていたが、
「……ちょっと待ってくれよ。こっちはなにがなんだかわからないんだ。君は……君は、十年前に……もういないはずじゃ……一体どこから……なんでここにいるの?」
 亜莉沙は、いっぺんにそんなにたくさん質問されたら何から答えたらいいかわからないよ、困ったように笑ってから、う〜んと唸って上を向いて考えている様子だったが、しばらくしてようやくこれだけを言った。
「理由はないよ。会いたかったから会いにきたんだよ。だって十年間会えなかったんだから。それに……やっと会えるようになったんだし……」
「やっと? なんでこれまでは会えなか……」
 ここで、僕は自分の中をなにかが走り抜けていったのを感じた。彼女の声が追ってきた。
「わかった?」
「まさか……嘘だろ。そんな……自分が……」
「あたしも最初は受け入れられなかったよ。でもさ、なんでもないことなんだよね。それにしても、もうちょっと早く気づけばよかったかなって少し思ったかな」
 こう言うと、彼女は少しさびしそうに目だけで笑った。
 周囲のざわめきと女の叫声が僕らをとり巻いていた。
「ね、いこっ」と、亜莉沙が耳元で囁いたかと思うと、彼女は僕の手を取った。夢で触れたのは彼女の手だったのだとわかった。懐かしさと温かさが胸に溢れてきた。
 身体が浮き上がるのを感じた。眼下に朝陽を浴びて横たわる身体があった。肉体を流れ出る鮮血が光を八方に弾いている。
 僕は、よく知る友人をでも見るように、自分の肉体を上から眺めていた。

いかがでしたでしょうか。

「小説家になろう」や「カクヨム」の方にも以後掲載予定です。

今後ともよろしくお願いします!

それではごきげんよ〜

葉暮

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